浮世絵でみる宿場町。広重、北斎が描いた宿場町3宿の世界を歩いてみよう!
亀山市は、古代には日本書紀に登場する「鈴鹿関」と呼ばれた関所が置かれ、江戸時代には、東海道五十三次の宿場町として亀山宿、関宿、坂下宿の3宿が置かれていました。 当時の東海道の様子は、様々な浮世絵師が描いた人気の題材で、その中でも歌川広重の「東海道五拾三次」シリーズが有名ですが、令和7年の大河ドラマ「べらぼう」の主人公である、蔦屋重三郎と関係があった葛飾北斎も、亀山、関などを描いています。
関宿旅籠玉屋歴史資料館
1.歌川広重、葛飾北斎、蔦屋重三郎の関係とは
歌川広重は、本名、安藤重右衛門。江戸八重洲河岸の定火消同心 源右衛門の長男として生まれ、早くに両親を亡くした広重は、文化六年(1809年)に13歳で家業である火消を継ぎました。一方で幼い頃から絵が好きで、文化八年(1811年)頃に浮世絵師 歌川豊広に弟子入りしました。『広重』は、師匠の豊広の「広」、重右衛門の「重」を1字ずつ取った画号です。
天保四年(1833年)頃、東海道の宿場とその周辺の風景を描いた『東海道五拾三次之内』を刊行し、当時の旅ブームも重なって、一躍人気絵師の仲間入りをしました。最晩年の傑作と評される『名所江戸百景』を制作中、安政五年(1858年)に62歳で亡くなります。
葛飾北斎は、出自に関して詳細な資料は残っていませんが、本名、中島鉄蔵。宝暦十年(1760年)の生まれとされています。6歳頃から好んで絵を描いており、14、15歳から19歳ごろまでは木版画の版下彫を生業としていたと言われています。その後、安永七年(1778)浮世絵師 勝川春章に弟子入りし勝川春朗の名をもらい、絵師としての活動を始めました。蔦屋重三郎と知り合ったのもこの頃で、蔦屋が手掛けた挿絵や版画に北斎の作品が使われたことで北斎の名は徐々に高まります。
文化元年から文化七年(1804~1810年)頃に、亀山市歴史博物館が収蔵する亀山、関などの浮世絵を描き、文政十三年(1830年)頃から、有名な『冨嶽三十六景』が発行されます。「神奈川沖浪裏」は2024年発行の新千円札の裏面に印刷されているので、皆さんも目にしたことがあるのではないでしょうか。
その後、嘉永二年(1849年)に90歳で亡くなるまで、漢画や西洋絵画の手法を取り入れながら精力的に描き続けました。
蔦屋重三郎は、寛延三年(1750年)に、江戸・新吉原(現在の台東区千束)で生まれ、22歳の時に吉原大門前に書店「耕書堂」を開業しました。『吉原細見』の発行に携わる中で、平賀源内と交流を深めました。出版社として才覚を発揮し、葛飾北斎や喜多川歌麿、東洲斎写楽など江戸文化を代表する作家たちを見出し、世に送り出した人物です。
蔦屋重三郎が亡くなったのは寛政九年(1797年)、一方で広重が生まれたのも寛政九年であることから、直接の関係はないものの、耕書堂は5代にわたり明治初期まで続いていることから、広重の活躍に影響があったのかもしれませんね。
2.亀山宿(雪晴)
歌川広重 亀山 雪晴
葛飾北斎 亀山
三重県で唯一現存する城郭建造物として県文化財(有形建造物、史跡)に指定されている亀山城多門櫓が特徴的な亀山宿。広重の『雪晴』には、急な坂道を上り亀山宿の西端に位置する京口門へ向かう大名行列と思われる一行が描かれています。描かれた京口門は残っていませんが、平成23年8月から行われた平成の大修理を経て建築当時の姿へと復原された亀山城多門櫓を見上げると、江戸時代の旅人も同じ様な風景を見ながら旅したことが思い起こされます。
亀山城多門櫓
亀山宿周辺には、他にも元禄十四年(1701年)に石井兄弟が父と兄の敵討ちを行い、通し狂言「霊験亀山鉾」の題材となった石井兄弟仇討遺跡や亀山市文化財に指定されている旧舘家住宅、加藤家屋敷跡及び加藤家長屋門、「べらぼう」や浮世絵の関連図書を蔵書するJR亀山駅前の市立図書館などの見どころがあります。
写真左:旧舘家住宅 写真右:加藤家屋敷跡
あわせてぜひ、旅の記念に宿場印、御朱印をゲットしましょう! 詳しくは亀山市観光協会HPをご覧ください。
【亀山宿、関宿、坂下宿の宿場印を販売しています。 | 亀山市観光協会】
亀山城跡
0595-96-1218
有
JR亀山駅から徒歩約10分
名阪国道亀山ICから約10分
3.関宿(本陣早立)
歌川広重 関 本陣早立
葛飾北斎 関
東海道唯一の重要伝統的建造物群保存地区である関宿。広重の『本陣早立』には、関宿に二軒あった本陣(川北本陣、伊藤本陣)のうち川北本陣に宿泊した大名一行がまだ暗い早朝に出立する様子が描かれています。川北本陣の門は関宿内の延命寺に移設され、当時の姿を残しています。
延命寺山門
関宿は、現在も江戸時代から明治時代にかけて建てられた町屋が数多く残っており、江戸時代にタイムスリップした様です。
関宿には、他にも関宿を代表する大旅籠の一つだった玉屋を修復した、日本最初の旅籠資料館である関宿旅籠玉屋歴史資料館や江戸時代に建てられた町屋を資料館として活用した関まちなみ資料館など当時を偲ぶことができるスポットがあります。
関宿旅籠玉屋歴史資料館
毎年7月下旬には、江戸時代元禄年間(1688~1704年)から続く、関宿祇園夏まつりが行われ、関の山の語源となった豪華絢爛な「山車(やま)」が街道を巡行します。
また、関宿にある観光駐車場には、足湯交流施設(小萬の湯)が併設されているので、街道を巡って疲れた足をリフレッシュしてください。
足湯交流施設(小萬の湯)
東海道関宿
0595-97-8877
関宿観光駐車場に駐車してください(徒歩約5分)
観光駐車場 大型4台、普通16台、おもいやり駐車1台(無料)
場所はこちら(google maps) https://goo.gl/ygWQ5A
JR関駅から徒歩約5分
名阪国道関ICから約5分
4.坂下宿(筆捨嶺)
歌川広重 阪之下 筆捨嶺
坂下宿は、東海道の難所のひとつである鈴鹿峠を控えていたため、江戸時代後半には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒が軒を連ねる大きな宿場でした。 広重の『筆捨嶺』には、筆捨山や大滝を眺める旅人が描かれています。「筆捨山」は、室町時代の画家である狩野元信が、この山を描こうとしたところ、雲や霧が立ちこめ目まぐるしく山の様子が変化したため絵が描けずに筆を捨ててしまったことからその名が付いたと言われています。
坂下宿内の岩屋観音は、お堂の隣りにある清滝と合わせて「清滝観音」として広く世に知られ、葛飾北斎の『諸国滝巡り』にも描かれています。また、大正・昭和期に活躍した推理作家の江戸川乱歩は代表作『屋根裏の散歩者』を、この岩屋観音で重い病気にかかった父の看病をしながら完成させたと言われています。
他にも、鈴鹿峠を発祥の地とする正調鈴鹿馬子唄について資料を展示している鈴鹿馬子唄会館や、廃校となった坂下小学校校舎を改修した野外活動施設である鈴鹿峠自然の家、口径400ミリメートル反射望遠鏡と口径115ミリメートル屈折望遠鏡各1台を備えた天文台「童夢(どーむ)」などのスポットがあります。
鈴鹿峠自然の家
坂下宿
0595-96-1218
無
JR関駅からタクシー約15分
名阪国道関ICから約15分
モデル:かざりさんプロフィール
三重県出身。日本大学芸術学部デザイン学科卒業後、陸上自衛隊で勤務。
SNS総フォロワー数は約50万人、YouTube総再生回数は4,500万回以上(2025年1月時点)。
「恐ろしく美しい元自衛官タレント」「元自衛官の現代アーティスト」として幅広く活動中。
2023年、防衛省広報アドバイザーに就任。アドバイザーとして公式に防衛省・自衛隊の広報活動を行う。
2024年には現代アーティストとして初の個展を開催。